Touching the Void 20241029 1300

Touching the Void ~虚空に触れて~
@PARCO劇場

 

しんどい。
なんとなく聞こえてきていたが、めちゃくちゃしんどい。
何せ正門くん演じるジョー、登山して滑落して大怪我して(こんだけでもしんどい)、そこからずっと遭難してる。苦痛や孤独もだけど、一幕の骨折とかめちゃくちゃ辛い。痛みを想起させる表現が苦手なので。。

ただ、舞台としては面白いなと思った。構成とか演出とかそういう点(痛みに関して以外w)。
パブでセーラがサイモン(とリチャード)に話を迫ることから始まる物語だけど、何故崖を登るのかという問いへの答えとして、パブの壁に椅子やら何やらつけられて崖として登らせていくのとか。二幕でのジョーとセーラのやりとりも結局どこかでパブの中っぽかったりするのとか。
ジョーは生還しているので、パブでの偲ぶ会自体が虚構だ。行きつけのパブで、クライマーではない(クライマーをクソだと思ってる)セーラがジョーの死に抗う、という虚構を入口に、サイモン(とリチャード)がシウラ・グランデでの出来事を語り、ジョーがクレバスに落ちた後は、ジョーの夢の中にセーラが現れる形でジョーの状況が語られていく(ジョーの夢の中ということになっているはずなのに、やっぱり物語を辿っているのはセーラなのが面白い。そこでもがいているのはジョーなんだけど)。パブを舞台にサイモンとリチャードが語るのも、ジョーの夢に現れるセーラがジョーに干渉するのも、虚構で、正門くんが事前のインタビューでこの作品を「幻想的」と言っていたのを思い出した。セーラがジョーの手紙を読むのは彼の死を受け入れようとするかのようで、でもやっぱり彼女は「認めない」。そして、ジョーはその手紙に書いた自分たちが作ったトイレに帰り着く。サイモンとリチャードは帰ってパブにいるのではなくギリギリまだベースキャンプにいて、風の中に叫び声を聞いて外に出たサイモンはジョーと再会する。これは、生還であると同時に、現実への帰還だ、と思った。ずっと虚構だったこの舞台が、現実へ帰ってきた。(そして虚構である舞台は現実に帰ってきた瞬間に幕切れになる)
カテコ後に投影される彼らについてのエピソード(?)、あほなのでジョーの分を見逃したが(あほ)(でもこれ、カテコ後なの罠すぎない!?)、セーラはケニアでハイジャックに遭い事故を知ったのは6週間後、というのが本編に負けず劣らず気になりすぎる。

タフな舞台だなあと思った。精神的にも、肉体的にも。
特に正門くんの役はずっと死の瀬戸際みたいなところに置かれているので……。
田中さんのサイモン、ロープを切ったことについて、それしかなかったと言いながら(実際おそらくサイモンが助かるにはそれしかなかった)後ろめたさもあるのだろうと見える感じ(それを自分に対して正当化しようとしていたり、ジョーの服は燃やすのに手紙や隠したお金は持って帰ろうとしたり)がよかった。
古川さん(セーラ)は若いなと思った。姉で、実際ジョーに対しては絶対的に上なんだけど、ジョーの死を認めない理屈でなさがそう思わせるのかなあ。声の印象もあるかもしれないけど。
リチャード役が浅利さんなのが肝な気がするなーとか思った。リチャードはクライマーではないし、どちらかというと(実際のリチャードとは違って)世俗的でかつまだ何者にもなれていないヒッピー、ジョーやサイモンともセーラとも全然違う(どちらかというと合わない)人間として描かれているけれど、若者たちの話であるこの舞台における一種の重石というか(いやリチャードも若いんだけど……言語化しづらいな)、経験と巧みさが必要とされる役という気がした。

 

子どもの頃に一度だけボルダリング的なことをした記憶があり(もはや曖昧な記憶すぎて怪しいが……)、しかも結構楽しかった記憶がある。運動苦手なのに。
だから?、登ることの本能的楽しさみたいなものはわからなくもないと思ったりする。
でも、登山に関する言葉でわたしが一番好きなのはやっぱり、三宅裕司夫人が趣味の欄に書いたという「登山(下山を含む)」だなあと思う。(又聞きなので間違ってたらごめん)
下山しなければ名言も残せない。この舞台の元になった山行だって、2人ともが生還したからこそその詳細(特にジョーの側)がわかっているのであって、そうでなければただ高山の氷の中でジョーの命とともに消えるしかなかった。下山してこそ。……これはわたしがクライマーではないからだろうけど。(でもそういう、ヒリヒリするような、そこでしか味わえない高揚、みたいなものは、実は登山に限った話ではなく。作中でジョーが中毒だと言うように、登山でなくても、そういう「何か」がある人はいると思う。これも人による(そういうものを必要としない人もいる)のかもしれないけれど)