『イン・クィア・タイム アジアン・クィア作家短編集』イン・イーシェン、リベイ・リンサンガン・カントー編、村上さつき訳(ころから)
- ラベルの名前 アルハム・ベイジ(パキスタン)
- あのこ ラカン・ウマリ(フィリピン)
- バナナに関する劇的な話 ディノ・マホーニー(香港)
- ハートオブサマー ダントン・レモト(フィリピン)
- よぅアダム アンドリス・ウィサタ(インドネシア)
- 呪詛 オヴィディア・ユー(シンガポール)
- シャドーガール ジェマ・ダス(マレーシア)
- 生理現象 アッシュ・リム(シンガポール)
- 重ね着 アーサー・ルイス・トンプソン(香港)
- 砂時計 アビエル・Y・ホック(バングラデシュ)
- リサルストリートの青年たちへ イアン・ロサレス・カソコ(フィリピン)
- お茶休憩 スー・ユーチェン(台湾)
- 上陸さん ジョアナ・リン・B・クルーズ(フィリピン)
- 蚵仔煎(オアチェン) リディア・クワ(シンガポール/カナダ)
- サンクチュアリ ネロ・オリッタ・フルーガー(フィリピン)
- スノードームの製図技師 デスモンド・コン・ゼチェン-ミンジ(シンガポール)
- 命には命 アーリー・ソル・A・ガドン(フィリピン)
フィリピンとシンガポールが多い。
大分時間をかけて…というか途中で間を空けてしまったこともあって該当箇所を探し出せないのだが、「妻さん」という語が出てきた話があり、なるほど……となった。「奥さん」という語を避けつつ、性別は示したかった(「パートナー」や「お連れ合い」だと相手の性別は限定されない)ということかな、と思ったが、訳者の意図はどうなんだろう。
訳で言うと、「サンクチュアリ」でカトリック(舞台がフィリピンであること、「アッシジ派のフランシスコ教会」と書かれていること、からそうだと思う。後者については「フランシスコ会(の教会)」もしくは(その教会の名称として聖人の名を冠して)「アッシジの聖フランシスコ教会」か…?という気がしないでもない(少なくともわたしは「アッシジ派」という言い方を聞いたことがない……)が)の日曜の礼拝を「礼拝」と書かれているのはちょっと違和感がある。「ミサ」の方が適当というかより正確ではないかと思う。(日本の)キリスト教において一般に「礼拝」と言った場合プロテスタントの普段のそれ(聖体拝領を伴わない)を指すことが多く、カトリックにおける聖体拝領を伴う祭儀はミサと呼ばれるので。原典でどういう語が使われているのか、そもそも英語においてその辺りがどのように記載されるのかに疎いのであれだけど、少なくとも日本語でキリスト教について書く場合、「礼拝」と「ミサ」は指し示す範囲が異なり、単純に互換可能な単語ではない、というのがわたしの認識。(訳者に何らか意図があってのことでそれをわたしが読み取れていないのであれば申し訳ない)
#カトリックの聖職者を「牧師」と訳している箇所もほかの話にあったような気もするが、合間に読んだ別の本かもしれないし、そもそもその誤訳(と言っていいと思う)はわりと目にするので単に上記につられて連想されてしまっただけかもしれない……だったらごめん……。。
「スノードームの製図技師」にはクメール・ルージュが出てくるけど、欧米が(カンボジアと対立するベトナムの背後にいるソ連への敵視から)この政権を支持した(ベトナムと対立した中国もカンボジアを支持)という点を考えると、ここで登場するのが英国?の司祭や上座仏教(と書かれていたが上座部仏教…?)ではなくチベット仏教の僧侶である(しかもそれらがあえて説明される)ことの意味を考えたくなる。
宗教に関する訳には思うところあるが(ただしこれはこの本に限らずよくある……)、読めてよかったと思える本だった。
話としては「呪詛」が結構好き。
あとは「サンクチュアリ」の最後の一節が特に好き……というか、今の気分に嵌まった。
痛みも、悲しみも、きっと薄れて、目にするまで思い出しもしない古傷になる。今の今まで存在すら忘れていた、遠く昔の友になる。
