<エクス・リブリス>『昼の家、夜の家』オルガ・トカルチュク、小椋彩訳(白水社)
ちょっと前に書評(?)を見かけてちょっと気になってたんだけど、『台湾生まれ、日本語育ち』に登場して俄然読みたくなった。
訳者解説込みで380ページくらいあって分厚いけど、読みやすくてわりと速いペースで読めてしまった。短い挿話で構成されているからってのもある。隙間時間でも読める……。
いろいろ言われていることはともかくとして、神さまはいつも、ここぞというときに現れるものだ。
(「アモス」p.41)もしもわたしがキノコだったら、ほかのあらゆるキノコとおなじ能力があるだろう。人間の臆病な頭を混乱させて、そのまなざしから身をかくす能力。キノコは催眠術師だ。
(「キノコであること」p.65)夢は、この世界で所有権の及ばない唯一のものだ。この地上のどこであろうと、眠る人びとの頭のなかには、ちいさくてこんがらがった世界が火を噴いている。夢の世界は、現実を覆うかさぶたみたいなもの。それぞれの夢がなにを意味するのかを知る専門家もいるのかもしれない。でも、全部あわさった夢がなにを意味するのかは、だれにもわからない。
(「夢」p.115)不公平な言葉について、わたしは考えている。不公平なのはおそらくそれらが、不均等かつ乱暴に二分された世界に育ったせいだ。「雄々しさ」という語と対になる女性の側の言葉ってなんだろう。「女々しさ」?「雄々しい」女性を、その性を否定せずに呼ぶ名前はないかしら。
(「手紙」p.136)シロタマゴテングダケ、つまりベニテングタケの兄弟は、低灌木の茂みの陰にひとりきり、太い一本足をおろしている。死を呼ぶ職杖だ。その香りは甘く、マッシュルームの群生を、遠くから監視している。まるで羊の皮をかぶったオオカミみたいに。
(「その妻と、子ども」p.168)わたしたちの世界とは、眠る人びとの世界です。人びとはすでに死んでいるか、生きているという夢を見ます。そういうわけで、世界には、ますます人が増えています。世界には眠る死人が暮らしていて、その数は増しつづけているからです。その一方で、最初の生を生きる、本来の住人というものは、いつもあまり多くはありません。この混乱をいっさい、わたしたちのだれも知らないのです。そして、生を夢みているだけなのか、本当に生きているのかを、知ることもまた、だれにもできないのです。
(「「ヒラリア」より、クマーニスの幻視」p.177)いったいだれが信じるものか。いなにものが、見えるだなんて。人間が、必ずしも人間であるとはかぎらないなんて。あらゆる決心が、幻覚にすぎないだなんて。ありがたいことに、人には信じないという才能が備わっている。これこそ神から賜った、真に価値ある贈り物だ。
(「千里眼」p.192)だって、言葉と事物がつくりだすのは、象徴的な空間だ。まるでキノコと白樺みたいに。事物の上に、言葉が生えて、そのときようやく、意味を持つ。風景のなかで成長して、口に出して使われる準備が整う。そのときようやく、熟れたリンゴみたいに、言葉を楽しむことができるのだ。においを嗅ぎ、ちょっと味を見て、表面をなめてみる。それから音を立てて半分に割り、はにかんだ、みずみずしい中身を調べる。そこまでされた言葉はけっして死なない。だって、そういう言葉は世界に向かって成長しながら、べつの意味で使われることだってできるから。そうでなければ、言葉なんていっさい死んでしまう。
人もたぶん同じだ。土地から引き離されては、生きてはいけない。そういう意味で、人は言葉だ。土地に生きて、そのとき、人は現実の存在になる。
(「言葉」p.225)白いページに連なる文字の列は、彼の目、彼の知性、彼という人間存在にとっての避難所だ。このおかげで世界は、開かれた、安全なものになる。ケーキの屑がテーブルクロスにこぼれ、歯が陶器のカップにあたって軽く音をたてる。口のなかには唾がわいている。叡智とは、お菓子のように食欲をそそり、お茶のように元気をくれるものなのだ。
(「哀しみと、哀しみよりももっと苦いもの」p.235)わたしは知っている。生きているか死んでいるかにかかわらず、ものが自分のなかにイメージを蓄積することを。ということはこのアロエも、かつて見ていた太陽や、信じがたいほどまぶしい空や、海岸沿いの低い水平線をひっそりと洗う巨大な雨のしずくを、きっと覚えているだろう。
(「アロエ」p.290)わたしはすでに、全部を知っている。まるで、新しいものと出会う才能を永遠に失ってしまったみたいだった。学ぶことをやめてしまったようだった。この感覚は明らかに強くなり、はじめはほんの予感、ちいさなひらめきにすぎなかったのが、いまや、ああ、あれね。なぜかわからないけど、全部知ってるわ、となる。理解できないとはいえ。
(「反復、発見」p.315)

